毒母エピソード3 無視
大学時代、母と喧嘩した私。
どんな事で喧嘩になったかは覚えていないけど、些細なすれ違いだったと思う。
いつも喧嘩の後は険悪になり、お互い話さなくなることはそれまでもあった。
でもその時は違った。
私は確か、手紙を書いたのだ。
それは自分にも悪い所はあったので、そこは謝りたかったし、お母さんにも悪いところはあったからそこは謝って欲しかった。
そういう内容の手紙だったと思う。
ところが返事は来なくて、それからも険悪なムードは続く。
私はそんな空気に耐えられなくなってきて、
おはよう ただいま おやすみ
挨拶をしてみる事にした。
それでも完全無視。
目も合わせてくれない。
根負けした私は
ごめんね。
と直接謝る。
それでも完全無視。
何日か経ってまた挨拶をしてみたり、謝ってみたり、それでもやっぱり無視。
そんな事が2ヶ月も続いた。
家に帰りたく無かった。
できる限り寄り道をして遅く帰るようにした。
家のドアを開けるのが苦痛だった。
ある日、限界を感じた私は
なんで無視するの!?
と母に。
すると母は、
あんたのことがわからないから存在しない事にしてた。
そう言った。
目も合わせなかったのも、私の存在はない事にされていたのだな、そう思ったら悲しかった。
この事は今でも私に根強く残っていて、私は夫と喧嘩した時に無視されることがものすごく苦しい。耐えられない。
だけど母は、覚えていないのだ。
自分がした事は何も覚えていない。
私はそんな母親にならないように、気をつけて子育てしていこう。
ステップファミリー2 俺がパパになってもいいか?
私は小学校3年生になり、母は時々友達と旅行に行くと言って一泊してきたり、私を連れておじさんの家に泊まるようになった。
ある日、おじさんの家に泊まっていた私を、母のいない時におじさんは膝に乗せてこう言った。
「俺がパパになってもいいか?」
私は驚いた。
驚いて、嫌だと思った。
でも嫌だと言ってしまったら、おじさんが傷ついてしまう気がして、
「わかんない。」
って答えた。
数日後、母と一緒にお風呂に入った時、
母は厳しい口調でこう言った。
「何がわかんないなの!?」
「え……」
「おじさんにパパになってもいいかって聞かれて、わかんないって言ったでしょ!」
「ママはあんたのために言ってるの!あんたには父親がいた方がいいと思うし、好きなテレビだって見られるようになるんだよ!」
その後は、ここにいても自由がない的な事を言っていた気がする。
そんな事を怒りながらまくしたてて、母は風呂を先に出て行った。
ただただ圧倒されて何も言えなかった私は、
あぁ、母は結婚するのだな、私も連れて行くのだな、私に決定権などないのだな、
そんな事を子どもながらに、一気に察した。
確かに昔ながらの家だから、夕方にアニメが観たくても、チャンネルの決定権はおじいちゃんで、いつもニュースか、相撲か、野球だった。
それでおじいちゃんと、喧嘩することも多かった。
それでも、私はおじいちゃんが大好きだったし、いきなり今まで育ってきたこの家と人と、別れるなんて嫌だった。
お父さんが欲しいなんて、思ったこともなかった。
母親の幸せを考えられるほど、まだ大人でもなくてただただ呆然としていた。
HSPパート1 毎日が1人反省会
私はHSPである。
HSPとは、Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)の略。
詳しく知りたい方は調べてくださいね(^^)
簡単に言うと生まれつき、敏感で繊細な心を持った人の事。
5人に1人くらいはいるらしい。
気質であって、病気ではない。
でもその気質のせいで、生きづらさを抱えているのが、HSPの人達。
最近、芸能人でもHSPのカミングアウトがあって、大分身近に感じられるようになってきました。
HSPでも、その中身は色々です。
ここでは私のHSPならではの生きづらさのエピソードを語っていきたいと思います。
例えば、朝、子どもを幼稚園に送り出すまでの、バス待ちの時間。
同じ幼稚園のママ友とのおしゃべり。
楽しいんです。
楽しいんですけど、無言が怖くて必死に話題を探して提供してしまう。
自分の話した会話の内容が、相手に不快な思いをさせてしまったのではないかと、とりあえず30分は悩む。
そんなに深い話をしたわけでもないけれど、とにかく自分がどう思われているのか気にしてしまう。
それは思い上がりで、人は対して自分の事を考えていないって事は知っているのです。
知っているのだけど、
自分が出した何気ない言葉に毎日反省して、落ち込んでしまう。
朝の数分でもこんななのだから、人と会うと、とっても疲れてしまうのです。( ;∀;)
ステップファミリー1 遊んでくれるおじさん
私は物心がついた時から、母の実家で育てられた。ひいおばあちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、おじちゃん、お母さんと暮らした。
幼稚園くらいの時から自分にはお父さんがいないということは気がついていたが、それを寂しいと思った事は無かった。
父親参観にはおじいちゃんが来てくれたし、おでかけにも連れて行ってくれたし、お風呂もおじいちゃんかおじちゃんが入れてくれていた。
お母さんは仕事をしていたけど、おばあちゃんが幼稚園のお迎えに来てくれて、家事をしてくれていた。
私が小学校に上がった頃、お母さんとのお出かけに、おじさんが付いてくるようになった。
そのおじさんのことをお母さんは下の名前で呼び捨てにしていたので、私もいつしかそう呼ぶようになった。
面白くて、遊んでくれるそのおじさんは、私にとって友達のようなものだったと思う。
そのおじさんが、自分の父親になることなんて、1ミリも想像していなかった。
毒母エピソード2 2人目の時期は?
2人目の妊活をしていた時、なかなか授からなかったが、頑張っていた頃のこと、実家に家族で帰省中。母が、
「あんたたち2人目はどうするの?もう〇〇(上の子)も3歳なんだし、早くしないと。」
こういう言い方をする母。
母は何でも自分の思った通りに私を運びたがる。
いや、頑張ってるし、頑張っててもなかなかできないことだってあるし、それになんでお母さんに2人目の時期を決められなければいけないの?
空気の読めない母でした。
そうそう、上の子が小さい時、お祭りで売っていたきゅうりの一本漬けを、口の中でくちゃくちゃにして塩分を抜いてから娘にあげた時はかなりひきましたΣ(-᷅_-᷄๑)
3人目が欲しいと夫に伝えたら
俺は1ミリも欲しいと思わない。
キャパオーバー
愛情を持てる気がしない
そんなに欲しくて、俺が受け入れないのが嫌なら、離婚してくれて構わない
とまぁ完全に拒否。
結婚する前から子どもは3人欲しかった。
一人っ子だったから、兄弟への憧れがあったし、もともと子どもが好きだったこともある。
ずっと、産後クライシスだったり、喧嘩ばかりの時期が続いて、最近ようやく夫と分かり合え、愛せるようになった今日この頃。第一子、第二子と恨みの気持ちが多い赤ちゃんの子育てだった。
私は今の夫と、もう一度赤ちゃんの子育てがしたいのだ。
どうにか自分の気持ちに折り合いをつけていかねばと思って2日落ち込んだ。
でも、忘れていた。
私はものすごく諦めが悪いのだ。
まだ33歳、もう少し時間はある。
夫よ、覚悟!!!
誰かの為に少しでもなればと思って始めたブログだったけど、私の吐き溜めになってしまうかもしれない。
ごめんなさい(>人<;)
毒母エピソード1 娘の子どもの数
私は母の言動にずっと悩まされて来ました。
母は、相手が傷つこうが嫌な気持ちになろうが言いたいことは言う、そういう性格です。
たくさんエピソードはありますが初めは最近感じた母への違和感を書きたいと思います。
1番ひどかった頃の事は、今後少しずつ。
子育て中なので、のんびり気まま更新です。
すみません(;ω;)
この前実家に帰った時、向かいのお家のおばさんに、
「3人目もあるんじゃないのー?(^^)」
と言われた。
返事をしようと思った瞬間、母が先に返事をした。
「この子は早産クセがあるから3人目は無理よ〜!」
ちなみに早産クセとは、切迫早産体質のこと。
何も言えなかった。
でもね、お母さん、なんでお母さんが答えるの?
私、本当は3人目欲しいんだ。
結婚前、母親から離れたくて仕方がなかった。
私が死んだらお母さんは満足なのだろうか、お母さんが死ねばいいのに、そんな事を思ってしまった事もある。
でも今、病気で弱った母を見ていると、会話もろくにできない母を見ていると、なるべく隣に座っていたいと思う。
一緒に歩く時は手を繋いで支えてあげたいと思う。
あれだけ、私の心など、何も考えていなかった母が、今は1番の味方でいてくれることがわかる。
先日、あと2、3年の命だと言われた母に私は何ができるだろう。